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教室という「世界」からのイジメの根元

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ここで凄惨な精神的・肉体的加害が行われる

 ツイッターの反応が良かったのが

 

 

やっぱりみんなそう思っとるんかな〜と感じつつ、もう少し詳しく述べたいなと思います。

 

学校の教室・校舎はまず物理的に狭い。

そして、そこには無作為に年代だけで抽出された生徒が押し込まれます。

 

彼らは年代こそ一緒ですが、もちろん発達の特性や進度は異なります。
それはそうでしょう、皆一人一人違うDNAを持っているのですから。

人一人として同じ人間はいないと言われたのは義務教育を受けていた時でした。

ただ、現代義務教育制度はそれと矛盾した行いをしています。

人一人として異なる特性を持つのに、

「お勉強」という明らかに言語優位・聴覚優位者に得意な「題目」によって、クラスでのスコア付を行なっています。

 

そんなスコア付など意味はありません。上で述べたように 人はの発達の特性と進度がそれぞれ異なるのですから、本質から考えればその特性と進度を見極めて最適な学問環境を整えるのが、「教育」の在り方のはずです。

 

しかし、スコア付によって誰が誰より優位であるか劣位であるかということが「可視化」されます。
運動は別にやってもいいしやらなくてもいいのが 逃げ道 となってくれていますが
「お勉強」のスコア付による優位・劣位の可視化は避けては通れません。

ぼくは、この「お勉強スコアによる優劣の可視化」によって

比較習慣が生徒間・先生間・保護者間に生成され、

この比較習慣が子供・保護者の他者への劣等感などを意識の底に植え付けていると考えます。

比較習慣が生む弊害としては

●先生・保護者が躍起になって子供の合わないことを強制する

●それができない子供は自分の自己肯定感を下げて感情的な豊かさを失う

●また子供間での比較習慣が進むことにより、「劣位」にある者、「優位」にある者というカースト的な意識が子供間でも進む。
それは「お勉強のスコア」からさらに広がり「肉体的な優位・劣位」「コミュニケーションの優位・劣位」「ビジュアルの優位・劣位」にまで浸透していく。そして「優位」にある者がストレスを感じている場合には「劣位」にある者がそのストレスの捌け口として精神的・肉体的加害を加えられる

 

=イジメ・不登校が生じる

 

 

というロジックです。自分の経験からしてもこれが仮説として正しいのではと考えています。

 

僕は小学校の高学年時に女子の軍団からイジメを受けた経験がありますが、     その時のことを回想しても「何か他のパワーが働いていた」と思うのです。

 

つまり、「イジメる側も、構造的な問題でストレスを継続的に感じている」というモノです。

 

ストレスがない状態で特定の誰かを1日のみではなく1年半ほども傷つけてやろう、と思うこと自体あり得ないですから。

 

ぼくは身体的には強かったので暴力は振るわれませんでしたが、痛烈な言葉は今でも覚えています。

もし、もし、今彼女たちに会っても何もしないでしょう。

しかし、過去に遡ってその状態に再び直面するなら

ぼくは自分の尊厳を守る為にどのような反撃手段でもとるでしょう。あの時受けた侮辱をもう一度やり過ごすことなどできないです。

 

 

・・・・少し自分の体験に落ちすぎてしまいました。

 

とにかく、その時の担任は何もしてくれませんでした。知らんぷり。でも彼も生徒に対して凄いストレスを感じていました。聞こえるくらいの影口は叩かれるわ、実際に無視されるわで。

 

ぼくは小学校高学年程から、学校のクラスが正常に機能しているのを見たことがありません。

 

誰かが誰かに傷つけられて、それは先生も一緒で。

 

 

「世界はこんなにも広いのに」

 

日本だけじゃない、何十カ国も存在して、一生かけても回れない程に広いのに。

 

子供が認識する「世界」とはその視覚と聴覚、触覚などにより脳に入力されるとても狭い狭い「学校」の中の情報で形成されます。

 

そして、身体拘束の長さがその世界観の狭さに拍車をかけます。朝から夕方までその物質的に小さいプラットフォームでの生活を余儀無くされるのですから。そこが地獄でも

 

だから、子供にとってのイジメは「世界」によるイジメ

なのです。

 

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子供にとってのイジメは

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世界からの攻撃なのです。



小さな子供は世界から排除されたと認知せざるを得ないのです。

 

 

 

だって知らないんだもの、

分からないんだもの、

教えてくれないんだもの

 

「世界はこんなにも広い」  なんてことは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラフな言葉によるラベリングー発達「障害」なのか「傾向」なのかー教育の箱



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https://twitter.com/mirailist/status/1078922420067590145

フォローしているみらいのリストさんのツイートをみて、改めて思ったのですが、

社会では、あまりにもラフな言葉によるラベリングが多すぎます。

(そもそも社会という言葉もラフです。また記事にします!)

 

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ラベリング

コンプライアンス」などの新しい外来語を解釈や、外国人労働者を外国人労働「力」という完全にモノ扱いする言葉などが、色々な弊害を生みます。

 

まずこの記事では、

発達の尖りを「障害」というのか「傾向」というのか

に焦点を当てて行きましょう。

 

1 2つの理由

人間はそれぞれに異なった遺伝子、認知特性、そして異なる人生経験を持っていますから、「傾向」にバラツキが出るのは当然です。

 

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そして自分の「傾向」を知ることは良いはずです。自分の適性を押さえて最適解を出しやすくなるのですから。

 

したがって、自己の発達の特性に「傾向」があると知っていることは、社会におい適正に基づいて最適なことをこなすことに繋がり、

結果、社会全体の幸福値を上げられる「はず」です。

 

では、なぜその発達の特性の「傾向」がある人と認定されると「障害」という言葉のラベルが貼られるのでしょう?

 

認定者側、つまり定型者には「傾向」がないとでもお思いなのでしょうか。

 

おそらく、そういうことでもないでしょう。

 

 

社会(ここでは社会的マジョリティを指します)が発達の尖りを「障害」とラベリングする理由は、主に2つ

「多様性に対する管理コストの抑制」

「マニュアル人間の自己肯定」です。

 

2 歴史からの考察

時は遡りますが、明治からの列強に対抗するための富国強兵政策で、政府は「強力な軍隊」を編成するために、上層部の命令を「バラツキなくこなせる一律・従順なまあまあ優秀な兵隊」を養成することが急務でした。

そこから、義務教育が始まりました。

 

そこでは個人の特性に沿った最適解などは求められず、政府のお題目にちゃんとついてこれるかという一律性・規則性、

つまり教科書というマニュアルに書いてあることを一定のレベルで実行できる能力が求められました。

 

個人の特性に沿った最適解などを探すことをサポートなどする財務的余裕もなかったでしょうし、何より軍隊では「上司の命令を以下に思考停止して遂行できるか」が重要となるからです。

 

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戦後、日本が焼け野原になった後、義務教育は軍国主義思想からは脱却しましたがマニュアル主義から抜け出せていません。

単純に、個人の特性に沿った最適解を探すことをサポートするよりもマニュアル渡してそれを実行しろ、という方が「楽」だからです。

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楽っすわー


 

それが現代の義務教育でありその「教育の箱」で鋳型に無理やり詰め込まれた人間は卒業後は大半はマニュアル人間と化してしまっています。

(日本は高校までの進学率も高いので高校まで準義務教育的と言っていいでしょう。これを便宜的に「教育の箱」と言っています)

 

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教育の箱

そして、「教育の箱」出身者のマニュアル人間が社会のマジョリティかつ母数が多い事による優位者である以上、

彼らは多様性に基づく個人の最適解よりマニュアルに基づく実行能力を評価します。

 

その方が「管理する側において楽」と感じているのでしょうし、

何よりそれは「自分が歩んできた自分の道を正当化する」ことにもなるからです。
自分の正当性を確かめる1番の方法は、後続にも同じことをやらせて成功させることですから。

 

日本の会社がいまだにジェネラリストを養成しようとしているのもこの延長線上にあります。

 

しかし、現在・・・・・

マニュアルに基づく実行能力テクノロジーによる代替可能性が一番高いものです。

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コンピューターのマニュアル実行能力には人間はとても叶いません。またマニュアルが情報通信の発達によりほぼ共有知となっていることからも、優れたマニュアルにも意味はなくなってきています。

現在日本の企業が世界で苦戦しているのはこのことをよくわからないまま「とにかくマニュアル」という人間が「上層部」に多いからです。

 

さらに、今日では多様性に基づく個人の特性の最適解に対する管理コストは高くありません。

なぜならテクノロジーによって個人の特性の「傾向」を可視化できるからです。

また、人口減少社会においては昔より一人の人間に対しての集中することができます。

 

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人間の適正が可視化されていく

結局、「多様性に対する管理コストの抑制」というのは現在においては当てはまりませんし、「マニュアル人間の自己肯定」というのもただの価値観の押し付けです。

 

時代性においても、多様性に基づく個人の特性の最適解は好ましいことなのです。

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まずは意見を聞こう

3 結論

以上から、やはり発達「障害」という言葉には

疑問符 なのです。

 

何に「障」るのか、何が「害」なのか。

「傾向」と「障害」の分水嶺はどこか

 

ここら辺を明確にしないまま、ネガティヴな言葉でラベリングすることは、大きな問題だと考えています。


・・・・早く京田辺シュタイナーの記事書かねば!! さらばです!!

 

 

第1の教育者ー母親?地域コミュニテイ?

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母親と地域コミュニティ


 

子供にとっての第1の教育者は「母親」です(祖父母や父親の場合もありますが、母数が少ないので母親に統一します)

 

そして、学校よりも母親からの教育の方が、幼年期においては大事です。
個対個のレベルでの関与時間がべらぼうに長いからです。
(学校は集団的な関与かつ時間も幼年期においてはそれほど長くないので影響力が比較的に小さいです)

 

子供が母親のご機嫌を伺うようでは終わりです。自発性が死にます。

 

母親が子供の関心や集中を観察し、それに合った環境を与えてやることが大事です。

 

 

というのはお題目としては重要でかつ必要だとは思いますが、発達特性の尖った子供さんを持った母親さんで育児を助けてくれる人がいない方は

 

そんなことを意識する力さえ残っていないように見受けられます。

 

その疲弊は、言葉の端々から感じてとります。

育児は母親だけに託すのはそもそも歴史的に過大な負担であり不可能です。

昔の長屋のような地域コミュニティを持ってして初めて第1の教育者たる母親の方は心を安定させながら育児ができます。

 

特に発達特性のある子供の場合は顕著です。

 

ぼくは子供と高齢者の方はコミュニケーションの相性がいいと思っていますので、そのような地域コミュニテイをオルタナティヴスクールと同時に作っていく必要性を感じています。

 

なんにせよ、お母さん方を地域や周りの人で支えるのが、現代育児の急務でしょう。

 

お母さん方は第1の教育者ではあっても、そこに教育・育児の負担を集中させてはならないのです。

 

 

京田辺シュタイナー学校① 見学・面談のお話し

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京田辺シュタイナー学校

皆さん 

 

こんばんは!

 

いやーおとんが熱出して大変(~_~;)

39度!

大事にしてくれな〜おとん。おかんもおとんがいてこそやし。家族が一番大事です。

 

っとプライベートは置いておいて、さる21日、シュタイナー教育で有名な

京田辺シュタイナー学校

に見学、現役の先生と面談して参りました。

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相変わらずのADDっぷりを発揮し、乗り過ごし乗り過ごし、グーグルマップには嘘を疲れ・・・・・やっと息絶え絶えに校門についても

 

「どうやって入ったら良いかわからん」f:id:dabblearm:20181226190232j:plain

 

・・・・校門っぽいのが見当たらないんですね〜

 

校門の前でウロウロして不審者になりかけていると、小学校低学年くらいの子供達が遊んでいたので、「先生呼んでくれる?」とお願いすると「センセー!」

 

元気に呼んでくれました😄 (有難うね!)

その先生さんが見学・面談の担当という訳ではなかったのですが「どうぞ!」

 

 

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元気に見学面談担当の先生を呼んでくれました〜

 

もうこの時点で 「良い学校だな」と確信しました。

 

応対してくださったのが内海先生という女性の先生でした。とても柔和な雰囲気を持たれた方で、会った瞬間「色々話しても大丈夫ですよ」という空気を感じました!

 

ぼくは緊張しているときや病気で体調が悪い時は、何とか自分の気持ちを伝える為にロジカルな言葉でその場を埋めてしまう傾向にあります。それは一見コミュニケーションが取れているように見えるのですが、実は取れていないのです。

コミュニケーションとはまた他の記事でも書こうと思いますが、連続可能性のあるものでなければなりません(コミュニティが持続可能性を前提とすることのアナロジー)。そして連続可能性の核は「納得感」です。次もこの人と喋りたいと思うかどうか。

 

話が脱線しましたね😅

 

そんな素敵な先生とお会いしたのはいいものの、実はぼくはシュタイナー教育メリットについて根ほり葉ほり聞くつもりはありませんでした。

事前にある程度の知識は入れていたからです。

それよりも聞きたかったのが、シュタイナー教育に置いてぼくが実際に懸念している問題(もちろんそれは学力なんていうつまらないものではありません)と京田辺学校における具体的成果事例です。

 

ぼくは懸念事項として「シュタイナー教育の属人性の強さ」を意識していました。

シュタイナー教育は、小学校1年から8年間、同じ先生に教えられます。これはぼくが義務教育において問題視する「生徒の成長において先生当たりか外れという、先生くじへの依存度が強すぎる(属人性の強さ)」に強く当てはまるからです。

 

内海先生もその点は意識されていたようで直ぐに答えが返って来ました。

1年の付き合いではその子のことをよく理解しないでも「やり過ごせてしまう」

 

しかし8年もの付き合いになると決まっているならばそんなことではやっていけない。全てをさらけ出して「その子に集中していく覚悟」が必要になる。

その覚悟を生徒・保護者・先生を交えてじっくり固めていける。

それは授業中においても子どもの微細な違いまでも解るようなところまでの集中力にまで達する。

 

なるほどなぁ と感じました。

人は1年間の付き合いならごまかせてしまうんですよね。そこに何の価値が生まれなくても。

けれども人は8年間も付き合う相手とごまかしの無価値な関係を作るよりそこに価値ある関係性を見つけるための覚悟をするでしょう。

 

ぼくは学校の離脱可能性の容易性が担保されるべきだと考えていますから、全同意ではありませんでしたが、新たな視点を頂きました。とてもハッピーです。

 

その後も色々話をしました。学校への転入や義務教育への回帰など。そこも柔軟に認めていらっしゃるようです。

ぼくが読んだ「ミュンヘンの小学生」という本からは(20年以上前のドイツのシュタイナー学校ということもあるでしょうが)コミュニティの離脱可能性・転入可能性について否定的な感じを読み取っていたので、安心しました。

 

子供が複数のコミュニティに属している、または特定のコミュニティで上手く行かなかった時のリスクヘッジとしての離脱可能性はかなり重要視されるべきだと思うので。

 

その後はぼくのお得意の、論理の庭石5段飛ばして3曲がるみたいな ロジカルにギリギリ裏付けられた感性優位のお話しをして見ましたが、

内海さんは

「何となくわかりますよ」

 

これがぼくの一番好きな言葉だったりします。

 

「分かります」というのは本質的にはあり得ないのです。なぜなら個人の積み重ねてきた認知・人生から生成される感情は必ず分岐するからです。同じ言葉でも、それは人間の共通アルゴリズムとして普遍的なレベルで一致しているだけであってその基底にある感情では一致してはいないのです。

 

だから「何となくわかる」という方が「わかる」より本質的な表現です。

 

内海さんは「シュタイナーっぽい考え方ですね」と仰ってくれました。

失礼ながらぼくはシュタイナーという学者をそこまで知ってはいないのですが、農業や労働の在り方、植物学までにも自身の思想を反映させているようです。

 

ぼくは根元的に「どういうことなのか」を深掘りするのが癖があります。

(だから会社組織からは厄介な人になりやすいのですが。一々止まって考えるので。マルチタスクおせーって感じです。)

おそらく、ぼくなどとは比肩すべきレベルにない高次元でシュタイナーは根元的な問いと実践の往来を超高速で繰り返していたのでしょうが、それは中々嬉しい言葉でした。

そして、帰り際に内海さんはとてつもなく素晴らしい本をぼくに進めてくれたのでした。

京田辺シュタイナーの話①

 

オルタナティブな教育-探究堂(京都出町柳

本日は、オルタナティブスクールの設立の準備として他の団体様の見学に行って参りました。

 

NPO法人の方に紹介してもらったのが、探究堂様。

http://tanqdo.jp/about/



ただ、見学当日、寝ぼけて電車で逆走してしまい30分遅れるという失態!

 まあ、ぼくにとっては日常茶飯事なのですが・・・・・

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代表の山田さん (子供からは文さんと呼ばれていました。以下文さん)

代表/探究プロデューサー

1975年生まれ。京都府京田辺市出身。

洛星高校、神戸大学経済学部卒。

大学卒業後、独立系SIerにて製造業向け基幹系システムの開発・保守運用業務にプロジェクトリーダーとして従事する。

本業の傍ら、教育系NPOプロボノとして関わる中で、「子どもの探究心を育む新たな教育の仕組みを創りたい」と考えるに至り、ITから教育分野に転身することを決意。

2011年より「探究する学び」を実践する東京コミュニティスクールにて教員を務め、2015年4月に独立し、現在に至る。

・タンキューラボ所長

・認定NPO法人東京コミュニティスクール理事

・任意団体「探究型の学びを考える会」会長

◎好きなもの:くるり、神社、フィールドワーク



遅刻のことなど触れずに快く見学をさせて頂きました。

 

遅刻魔のぼくですが、心地良いひとは急いで生きていない感があります。

 

学び舎はガレージ? 文さんのお家なのでしょうか?(聞くの忘れた)

https://www.facebook.com/tanqdo.jp/

 

さて、文さんと子供達一行はいきなり京都御苑など京都っぽい街を散策し、その中で「はたらく」を見つけに向かいます。彼らははたらく探偵です。

遅刻魔はその後ろに付いて行き、今の瞬間子供達が何に興味を持っているかに集中します。

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写真は子供達の集中力削ぐと思ったので、撮りませんでした〜

 

【「はたらく」探偵】は文さんと子供さんとで決めたプロジェクト。

前回は、「人が働いている」ところにフォーカスしていったようですが、今回は「物質が機能している(働いている)」ところにフォーカスしていきました。

 

英語WORK には 両者の意味がありますね。

物質の機能を考える、というのは非常に大事です。自分の視覚、聴覚、触覚等によって形成される人間世界においては、物質の本質的な存在意義を考えないと世界が曖昧になってしまいます。

 

小さい時期は感得機能が非常に高い時期です。であるのに勉強を詰め込まれて、物質世界の本質的意義を考える時間が減っていくと、世界への知覚、つまり感性などが弱まり感情や創造性が弱まってしまいます。

 

代表者がどのように考えておられるかはわかりませんが、ぼくは後ろから勝手に「なるほど」と脳内でエンドルフィンを放出していました。

 

散策の途中、文さんがある子供さんに「君はさっきから「はたらく」を見つけていないじゃないか。「はたらく探偵」じゃなく、単におしゃべりしているだけじゃないか。ではもう意味がないから帰ろう。別に強制でやっているわけではないのだから」と話す一幕がありました。

 

おそらく文さんは怒ってもいないでしょう。ただ、自分たちで決めたことはちゃんとやろうよという意図があったのだと思います。

 

子供達はその話を聞いて、ずーっと沈黙とも思案ともとれる時間を過ごしました。

ぼくは川の流れをぼーっと見ていましたが、おそらく子供達は「強制されたわけでもない今の行動の意味」を考えているのかな〜と思っていました。

強制された行動の意味を考えることは簡単です。考えなくて良いのですから。

ただ行動に自分の判断が介在すると結局自分が行動において集中したかったものは何なのか、ちゃんと考えなくてはなりません。

 

根源的な問いですが、40代のエリートサラリーマンの方や弁護士の方でも、結局今自分は何をしているのか、集中したいものは何なのか、問うてもわからない方はおられます。

 

知識ベースでの世界で生きているとそうなるのです。知性ベースだとそれはあり得ません。自らの知的好奇心について深い理解があるからです。

 

何にせよ、散策は続行。

終わったあとは皆んなではたらていたものを書き出します。

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(今からファシリテーターみたいなことをしてると思うと成長が楽しみ)

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(それをみる親御さん達)


なお、今回は文さんご自身が「書き出しの量が少ないな〜」と言われていたので、

 

後で「そのことをどう捉えられていますか?」と質問したところ、以下のような答えが帰ってきました。

 

【書き出しが少なかったことを「失敗」とは捉えていません。

本来やるべきことを忘れて遊んでしまったことを本人たちが反省し、同じ失敗を繰り返さないよう次から意識して行動できたらそれでOKです。

書き出しの量は確かに物足りない感じでしたが、自身の失敗からの気づきに比べると大した問題ではない私は考えています。

探究堂では常々「どんどん失敗しよう!」と子どもたちに伝えていますので。】

 

さすがに長年の経験をお持ちの方のお答えだと思いました。
現代では、経験は豊富だが失敗を恐れてチャレンジングな業務しか行わないビジネスマンがいっぱいいます。

でも、大体の失敗は何も「失」ってはいませんし、「敗」けてもいません。掴み取った経験値があるだけです。

探究堂で学んだ子供達はきっと色んなチャレンジをしてくれる、と信じて疑わない信念のこもった言葉だと思いました。

 

保護者の方にも少しお話を聞こうと、通わせているお母さんに少し話をお伺いした際、子供が自然を感じてそれをどんどん自身に吸収しているのがわかるしそれを見ていて楽しいとおっしゃっていました。

 

現代社会において自然に触れる機会は減っていますが、やはり小さい子には自然から得るものが非常に多いのでしょう。

 

終わったあと、少し話をお伺いして、オルタナティブスクールのことなど教えて頂きました。

 

前職は東京コミュニティスクールというオルタナティブスクールで教員を務めておられ、そこから独立して探究堂を立ち上げたそうです。

お別れを告げたあと、ぼくが思ったのは

 

「子供ってストレスかかると体がうねるんだな〜」

みたいなことでした。感情と体のリンクを観察していたので。

 

非常に意義深いお時間でした。探究堂様 有り難うございました!

 

おしまい。

 

(告知)第1回 「義務教育の限界とオルタナティブ教育の可能性」 12月11日 火曜日 夜6時〜9時  IN京都 

こんにちは!!

お久しぶりです!!

元気ですか!!

 

ということで、

 

標題の通り、教育をテーマにした会を開催したいと思いませう。

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第1回 「義務教育の限界とオルタナティブ教育の可能性」 12月11日 火曜日 夜6時〜9時  IN京都 

桂駅西口の「西口会館」の第一和室にて

桂西口会館(桂・洛西/集会場・会館)の施設情報 | いつもNAVI

 

標題は硬いですが、ただ楽し〜く知性的な時間を過ごしませう。 

 

決まりごととしては

1 言論は「批判」ではなく、賛成か反対か で語る (全ての言論は主観ゆえ)

2 喋る時間と聴く時間を自分でコントロール(コミュニケーションの互恵性、つまり人間は「喋る」行為が快ゆえにときとして喋りすぎて相手に喋る時間を与えない)

 

僕はお菓子食べながら本読んでるかそれか短歌でも作って、講師の方が受けてくれたら談義してるので(まだ交渉中なんです・・・)、是非ご参加下さい!!

 

参加費は100円からで〜

 

参加希望の人はdabblearm#icloud.comまでご連絡を (#を@に変換して下さい)

飛び入りも OKです。途中退室もありです。

 

んではんでは!当日会うかもしれない人は宜しくです!!

 

 

 

 

 

 

「貧富の差による法的リスクの格差」と公共財としての法律

みなさんは「SUITS」という海外法律ドラマをご存知でしょうかね?

 

 

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いや〜何年前かに見て、おっさんの方(名前忘れた)とその同期(ネズミみたいな人)

が んんげえクールだったのを覚えております。

 

まあ、でも法治国家においてなぜ人民に届く前に法律の解釈が必要でかつそれに多額のお金が発生するのか、納得行きやせん。 

確実に貧富の差で法的リスクに晒される度合いが異なってきます。

 

上記のブロガーさんの記事を見ていて、すごい分析されておられるな〜

と思いながら、んで弁護士さんは一般的にどういうお答えをしているのかググったところ「ほにゃらら〜〜〜〜〜〜〜〜〜。まあ専門家に相談するのが一番ですね。」

 

ん〜どうしても事務所の営業みたいになってしまうんですよね(それは仕方ない

でもやはり法律が一般市民の手に落ちてこないのはヒシヒシと感じます。

 

んだから、

法律に関する疑問を集約してビッグデータとして集積して、法律知識を公共財としてみんなが簡単に答えをググれるようなアプリを作ろう!さすれば「貧富の差による法的リスクの格差」は軽減していくはず。そして、胡散臭い賃貸契約書とか「???」な携帯の契約書とかは死滅していく、と思うのです。

 

というわけで、誰かアプリケーション作るのがお得意な人〜連絡待ってます!