教室という「世界」からのイジメの根元
ツイッターの反応が良かったのが
ここ20年くらい、報道は自殺の問題を自殺した際の学校の対応、担任の対応にずーっとフォーカスしていますが、「なぜイジメが起こるのか」という根元をフォーカスしないとまた20年地獄が続くんですよ。
— diver (@asworknot) December 22, 2018
年齢というラベルだけで教室を構成する是非とか、学校の身体拘束の時間の長さとか あるでしょうに
やっぱりみんなそう思っとるんかな〜と感じつつ、もう少し詳しく述べたいなと思います。
学校の教室・校舎はまず物理的に狭い。
そして、そこには無作為に年代だけで抽出された生徒が押し込まれます。
彼らは年代こそ一緒ですが、もちろん発達の特性や進度は異なります。
それはそうでしょう、皆一人一人違うDNAを持っているのですから。
人一人として同じ人間はいないと言われたのは義務教育を受けていた時でした。
ただ、現代義務教育制度はそれと矛盾した行いをしています。
人一人として異なる特性を持つのに、
「お勉強」という明らかに言語優位・聴覚優位者に得意な「題目」によって、クラスでのスコア付を行なっています。
そんなスコア付など意味はありません。上で述べたように 人はの発達の特性と進度がそれぞれ異なるのですから、本質から考えればその特性と進度を見極めて最適な学問環境を整えるのが、「教育」の在り方のはずです。
しかし、スコア付によって誰が誰より優位であるか劣位であるかということが「可視化」されます。
運動は別にやってもいいしやらなくてもいいのが 逃げ道 となってくれていますが
「お勉強」のスコア付による優位・劣位の可視化は避けては通れません。
ぼくは、この「お勉強スコアによる優劣の可視化」によって
比較習慣が生徒間・先生間・保護者間に生成され、
この比較習慣が子供・保護者の他者への劣等感などを意識の底に植え付けていると考えます。
比較習慣が生む弊害としては
●先生・保護者が躍起になって子供の合わないことを強制する
●それができない子供は自分の自己肯定感を下げて感情的な豊かさを失う
●また子供間での比較習慣が進むことにより、「劣位」にある者、「優位」にある者というカースト的な意識が子供間でも進む。
それは「お勉強のスコア」からさらに広がり「肉体的な優位・劣位」「コミュニケーションの優位・劣位」「ビジュアルの優位・劣位」にまで浸透していく。そして「優位」にある者がストレスを感じている場合には「劣位」にある者がそのストレスの捌け口として精神的・肉体的加害を加えられる
=イジメ・不登校が生じる
というロジックです。自分の経験からしてもこれが仮説として正しいのではと考えています。
僕は小学校の高学年時に女子の軍団からイジメを受けた経験がありますが、 その時のことを回想しても「何か他のパワーが働いていた」と思うのです。
つまり、「イジメる側も、構造的な問題でストレスを継続的に感じている」というモノです。
ストレスがない状態で特定の誰かを1日のみではなく1年半ほども傷つけてやろう、と思うこと自体あり得ないですから。
ぼくは身体的には強かったので暴力は振るわれませんでしたが、痛烈な言葉は今でも覚えています。
もし、もし、今彼女たちに会っても何もしないでしょう。
しかし、過去に遡ってその状態に再び直面するなら
ぼくは自分の尊厳を守る為にどのような反撃手段でもとるでしょう。あの時受けた侮辱をもう一度やり過ごすことなどできないです。
・・・・少し自分の体験に落ちすぎてしまいました。
とにかく、その時の担任は何もしてくれませんでした。知らんぷり。でも彼も生徒に対して凄いストレスを感じていました。聞こえるくらいの影口は叩かれるわ、実際に無視されるわで。
ぼくは小学校高学年程から、学校のクラスが正常に機能しているのを見たことがありません。
誰かが誰かに傷つけられて、それは先生も一緒で。
「世界はこんなにも広いのに」
日本だけじゃない、何十カ国も存在して、一生かけても回れない程に広いのに。
子供が認識する「世界」とはその視覚と聴覚、触覚などにより脳に入力されるとても狭い狭い「学校」の中の情報で形成されます。
そして、身体拘束の長さがその世界観の狭さに拍車をかけます。朝から夕方までその物質的に小さいプラットフォームでの生活を余儀無くされるのですから。そこが地獄でも
だから、子供にとってのイジメは「世界」によるイジメ
なのです。
小さな子供は世界から排除されたと認知せざるを得ないのです。
だって知らないんだもの、
分からないんだもの、
教えてくれないんだもの
「世界はこんなにも広い」 なんてことは。