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ラフな言葉によるラベリングー発達「障害」なのか「傾向」なのかー教育の箱



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https://twitter.com/mirailist/status/1078922420067590145

フォローしているみらいのリストさんのツイートをみて、改めて思ったのですが、

社会では、あまりにもラフな言葉によるラベリングが多すぎます。

(そもそも社会という言葉もラフです。また記事にします!)

 

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ラベリング

コンプライアンス」などの新しい外来語を解釈や、外国人労働者を外国人労働「力」という完全にモノ扱いする言葉などが、色々な弊害を生みます。

 

まずこの記事では、

発達の尖りを「障害」というのか「傾向」というのか

に焦点を当てて行きましょう。

 

1 2つの理由

人間はそれぞれに異なった遺伝子、認知特性、そして異なる人生経験を持っていますから、「傾向」にバラツキが出るのは当然です。

 

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そして自分の「傾向」を知ることは良いはずです。自分の適性を押さえて最適解を出しやすくなるのですから。

 

したがって、自己の発達の特性に「傾向」があると知っていることは、社会におい適正に基づいて最適なことをこなすことに繋がり、

結果、社会全体の幸福値を上げられる「はず」です。

 

では、なぜその発達の特性の「傾向」がある人と認定されると「障害」という言葉のラベルが貼られるのでしょう?

 

認定者側、つまり定型者には「傾向」がないとでもお思いなのでしょうか。

 

おそらく、そういうことでもないでしょう。

 

 

社会(ここでは社会的マジョリティを指します)が発達の尖りを「障害」とラベリングする理由は、主に2つ

「多様性に対する管理コストの抑制」

「マニュアル人間の自己肯定」です。

 

2 歴史からの考察

時は遡りますが、明治からの列強に対抗するための富国強兵政策で、政府は「強力な軍隊」を編成するために、上層部の命令を「バラツキなくこなせる一律・従順なまあまあ優秀な兵隊」を養成することが急務でした。

そこから、義務教育が始まりました。

 

そこでは個人の特性に沿った最適解などは求められず、政府のお題目にちゃんとついてこれるかという一律性・規則性、

つまり教科書というマニュアルに書いてあることを一定のレベルで実行できる能力が求められました。

 

個人の特性に沿った最適解などを探すことをサポートなどする財務的余裕もなかったでしょうし、何より軍隊では「上司の命令を以下に思考停止して遂行できるか」が重要となるからです。

 

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戦後、日本が焼け野原になった後、義務教育は軍国主義思想からは脱却しましたがマニュアル主義から抜け出せていません。

単純に、個人の特性に沿った最適解を探すことをサポートするよりもマニュアル渡してそれを実行しろ、という方が「楽」だからです。

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楽っすわー


 

それが現代の義務教育でありその「教育の箱」で鋳型に無理やり詰め込まれた人間は卒業後は大半はマニュアル人間と化してしまっています。

(日本は高校までの進学率も高いので高校まで準義務教育的と言っていいでしょう。これを便宜的に「教育の箱」と言っています)

 

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教育の箱

そして、「教育の箱」出身者のマニュアル人間が社会のマジョリティかつ母数が多い事による優位者である以上、

彼らは多様性に基づく個人の最適解よりマニュアルに基づく実行能力を評価します。

 

その方が「管理する側において楽」と感じているのでしょうし、

何よりそれは「自分が歩んできた自分の道を正当化する」ことにもなるからです。
自分の正当性を確かめる1番の方法は、後続にも同じことをやらせて成功させることですから。

 

日本の会社がいまだにジェネラリストを養成しようとしているのもこの延長線上にあります。

 

しかし、現在・・・・・

マニュアルに基づく実行能力テクノロジーによる代替可能性が一番高いものです。

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コンピューターのマニュアル実行能力には人間はとても叶いません。またマニュアルが情報通信の発達によりほぼ共有知となっていることからも、優れたマニュアルにも意味はなくなってきています。

現在日本の企業が世界で苦戦しているのはこのことをよくわからないまま「とにかくマニュアル」という人間が「上層部」に多いからです。

 

さらに、今日では多様性に基づく個人の特性の最適解に対する管理コストは高くありません。

なぜならテクノロジーによって個人の特性の「傾向」を可視化できるからです。

また、人口減少社会においては昔より一人の人間に対しての集中することができます。

 

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人間の適正が可視化されていく

結局、「多様性に対する管理コストの抑制」というのは現在においては当てはまりませんし、「マニュアル人間の自己肯定」というのもただの価値観の押し付けです。

 

時代性においても、多様性に基づく個人の特性の最適解は好ましいことなのです。

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まずは意見を聞こう

3 結論

以上から、やはり発達「障害」という言葉には

疑問符 なのです。

 

何に「障」るのか、何が「害」なのか。

「傾向」と「障害」の分水嶺はどこか

 

ここら辺を明確にしないまま、ネガティヴな言葉でラベリングすることは、大きな問題だと考えています。


・・・・早く京田辺シュタイナーの記事書かねば!! さらばです!!