Personalized Diversity Community

健常者より優れた器官・認知を持ち得る「テック・デザイン・プロダクト」 を開発する視点が障がい者の「当事者感」にある。 健常者も高い利便性・意匠性によりそれを自身に取り入れるようになると、両者は馴染んでいく。 倫理論ではなく、経済的合理性に基づくなアプローチによって、 現状の「全体のパラメータ総合値を無視し1つ2つのパラメーターの振れ幅だけをみて障がい者と健常者とを分ける」 フレームワークの消失を目指す。

蝶のような

最近は「起業」「経営」「クラウドファンディング」等の言葉を聞くだけで、ちょっとウップってなります。甘すぎるもの食べるのと一緒の感じです。



「起業」は、いつでも、誰でもできます。業として何かにコストをかけ利益を出すことを目指せば(実際に利益は出てなくても)それで業を自ら起こしているのですから。

極端、起業は小学生でもできます。

ということを踏まえまして・・・

 

蝶のような起業家、のみと話しをする価値があると思います。

他の2種類の方とは楽しくおしゃべりする方がお互いにとっていいと思います

(ストレスマネジメントですよ!ストレスマネジメント!

 

起業をバタフライと例え、他2種を水泳のバタフライ泳者に例えますと・・

 

①「起業」をまだしていない若しくはする気もない人

彼らが起業の在り方、例えば創業者としての適正、ビジョン共有の在り方、会社の社会的使命について熱く語るのは

まるでバタフライの泳ぎ方を色んな書物やオリンピック競技者のバタフライをyoutubeでみた人がプールにも入る前の段階でバタフライの泳ぎ方を熱く語るのに似ていてます。

彼らの共通点は、「喋りたがり」「顔がしかめっ面」「どこかで見知ったようなことと同じことを言い直しているようにしか聞こえない」等

 

本当はこの段階では、彼らは何も喋る必要はありません。泳いで見るまではそれがバタフライの形になっているかわかるはずもないのですから。

 

②「起業」しているが疲れている人

彼らのバタフライは水しぶきあげまくり。ちょっと横で泳いでるんですけど・・・・・・

特に収益を上げているとかは関係ありません。めっちゃくちゃ「迷惑」です。他の泳者にとって。でっかい水しぶきも、その苦しそうな顔も。

共通点としては「説教したがり」です。



では、蝶のような起業家とは

見ていて美しい。

これだけです。

もちろん収益の大きさなどは関係ありませんが、美しさゆえにそのファンは多く大体収益は取れているでしょう。

共通点としては「多く語らない」「謙虚」「テンションが高い」

 

特に「テンションが高い」はメルクマールかな、と。一緒にいて楽しいですから。

美しさの原因は、「彼が笑顔で泳いでいるから」

 

では、バイビーです。

5W1Hの追加考察

 

5W1Hは,ビジネス言語、つまり事実伝達のみを目的としたコミュニケーションのチェックリストとして機能します。なお、これを事実伝達以上に、自身の知見を深めてくれるメソッドと捉える方もいますが、それは入ってきた事実を解釈する人の事実に対する解像度(対象への集中力)に依存するものであり正確ではない表現かなと。

 

このメソッドを解剖している時に、あるブログで以下のような文章に出会いました。

 

英国の作家キップリングは,「5W1H」(「六何」ともいう)を「6人の賢者」にみたてて,その詩の一節で次のように書いています。

I keep six honest serving-men.
    (They taught me all I knew);
 Their names are What and Why and When
   And How and Where and Who.
(私は,6人の正直な召使いを持っている。
彼らは,私の知りたいことを何でも教えてくれた。
その名前は,What,Why,When,How,Where,Who である。)

 

これをメソッドの有用性のエビデンスとしてあげているのかな?違ったらごめんなさい(伏せ目

ただ、もしエビデンスとしてあげているのなら、正直不適ではないかなと。

このメソッドは彼の作品の重要な要素をなしているわけではありません。もし重要な要素をなしているなら、彼の作品に心を動かされることはないでしょう。

作家は新聞記者のような事実伝達者ではなく、アートよりの職業ですから。

現代のビジネスコミュニケーションでは,正確性(Correctness),明確性(Clearness)簡潔性(Conciseness)の3Cが求められ、それを助けるのが「5W1H」「六何」です。新聞記者のようだぁ。

 

そこにアートよりの表現、つまり人の感情を動かすエモい表現は不要ですね。

作家の仕事が、情報を正確に伝えることか、それとも人の心を動かすことか、ということをみればエビデンスとして不適かなっと。

 

そのブロガーさんが見ていたら「ふーん」ぐらいに思っておいてくださいな。

また、仕事ができる人は5W1Hの原則を使いこなせている人であるという因果関係に繋げる言論もよくみます。各メディア媒体でバズっています。

 

ただ、それは仕事ができるということとは因果関係にあるわけではないと思います。

仕事ができるとは、つまり成果物の質の高さが前提であると思います。

 

仕事の質はその伝達の上手さには本質的には関係がないです。

 

ただ、新聞記者の方であったり、事実伝達の上手さを「仕事」に含める前提にすれば

仕事ができる、といえるかもしれないですね!

これは書いていて、ああー僕考えミスった!と思いました。最後の最後にして・・

 

なぜなら、他者に成果物の質が正確に伝わなければ、その成果物がスケールことはないでしょうから。

 

ただ、

仕事ができる人は5W1Hの原則を使いこなせている人、というのは因果関係にありません。相関は取れるかもしれませんが。

この表現は仕事というものの内在的価値(それが社会でどう役に立ち、生活を豊かにするのかという文脈で使っています)を見ない傾向にある現代ビジネスマンの評価基準を、皮肉にも表しているように思えます。

 

自分は大丈夫か〜

 

自省します。

 

ではではバイビー

感情の差分と普遍化された言葉ービジネスにおけるコミュニケーション障害

 感情の差分と普遍化された言葉

このテーマをビジネスに当てはめて、自分が感じたことを書いていこうと思うぜぃ 

 

第1章 感情の差分

「・・・・・・心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」

Antoine de Saint-Exupery『星の王子様』 内藤 濯 訳

 

ある映画をみたとき、2人の人物が、同じ場面を評価し、同じセリフを評価し、最高の賛辞を送ろうとして同じ言葉を使った。

 

「あの、自分以外の誰の存在も許そうとしない、目つき、咆哮がカッコいい」

 

これは、「GO」という映画の窪塚洋介という役者がブチギレる一連のシーンに対する賛辞だ。

 1人の人物が15歳の生意気な映画評論家気取りの表現だ。もう一人は28歳の会社員の表現だ。

 

15歳の彼は、ある筋肉系の病気のために通信制高校に通うことなったばかり。自分以外の存在に対して怒りを覚えまた絶望さえ感じている。

 

28歳の彼は、慶應義塾大学の大学院を卒業した後に企業の法務部で働いている。大学では(のちに別れたが)本当に心から愛した女性と3年間程同棲していた。

自分以外の存在に対して過敏になることもない(と思ってはいる)。

 

ここまで、書いてしまえばわかるだろう。15歳も28歳の人物も筆者自身である。

しかし、13年の月日によって、両者の人格は確実に別人になってしまっている。

 

13年後に筆者は同名の映画を観た。色々と感じるところは異なっていた。

28歳は、「この台詞づかいは・・・」「これはチープな演出だ」など細かいところに目がをつけて色々とイチャモンをつけている。評論家ぶっている。

 

ただ、窪塚洋介のブチギレシーンに対してだけは

 

「あの、自分以外の誰の存在も許そうとしない、目つき、咆哮がカッコいい」

 

同じ表現を使う。15歳がこの表現を使った証拠など示せはしないが。

 

ただ、15歳はこの表現の後に、世間に対する敵意を増幅させて毛布にくるまる。

対して28歳はこの表現の後に、ボランティア団体のHPの作成を手伝っている。

 

同じ言葉を使った後の私の行動は、15歳と28歳で矛盾している。

これは、同じ言葉を使ったしてもその根底にある感情では差分が生じていることに基づく。

それが同一人物だとしても。

 

両者の頭の中では違うもの渦巻いている。

15歳は世界への抽象的悪意、28歳は障害者と健常者の区別を消失させる具体的方法。

 

同じ賞賛の言葉・表現を使った。が、

前者は窪塚洋介を、世界への抽象的悪意を表現したい自分の代弁者と思ったのだ。

後者は窪塚洋介を、ビジネスの虚業に辟易しながもそれを感情ではなく言語化により批判しようとする自分との対極に位置する者と思ったのだ。

 

結局は、感情(情を感じる)は人生のコンテクスト(文脈)により変わっていくということだ。

私は同じ人生を生きているが、そのコンテクストは積み重なっていく。自分の感情もそのコンテクストの中で認知した数に左右されて変わっていく。

 

このように、同一人物でも人生のコンテクストにより言葉の基にある感情は一致しない。

 

そうであれば、別の人物との言葉の基にある感情は一致しようがない。人生のコンテクストが異なるからだ。

 

双子が同じ時間、同じ場所で同じ行動をして過ごしても一致しないだろう。なぜなら、彼らは同じ場所に立つことは物理的に無理であるから、視界がずれて認知する対象物・それに対する考察が異なることになるからだ(一面の砂漠で過ごすならどうかわからないが、そのようなことまで想定するのは非現実的だろうし、意味がない)。

 

言葉はコミュニケーションをとるための人の共通アルゴリズムとして、普遍化された表現メディアだから一致することはあり得る。

 

しかし、基にある感情には必ず差分がある。感情は人生を通して再現されるから。

 

これを感情の個々性とでも呼ぼう。

 

ラポール形成のためのミラーリングやペーシング、コールドリーディング

ピントの話を書いていたら、標題のことについて言及してみたいと思います(意味不明

 

まず、これは「有用」で「crumpy 」な「fake」。だと思います。

テクニックで作られたラポールは崩れやすいです。

なぜならテクニックは本質性を補助するには有用ですが、本質性に代替するものではないからです。。

 

何よりこれは他人をコントロールしかねない点で、相手の「自他分離」を阻害する行為に成り得ます。

相手をコントロールするということは、相手の人生についての自律的判断の時間を奪っている、と私は考えます。

 

そして、相手をコントロールしている時、自分は相手をコントロールすることに集中していることを意味しますから時間は相手を軸に回っているとも言えると思います。

つまり、自分の人生の自律性まで失っているのだと思います。

 

相手をコントロールするよりは、自分をコントロールする方が生き方としては自分の判断軸で動けるから楽ですね〜

 

ミラーリングなどの技術を磨くよりは、自分の呼吸の間隔を知る、自分の頭の位置をブラさないなどが自分を高めるためには有用でしょう。

呼吸の間隔を知れば集中力をメタ認知できる。

浅いと脳に酸素が十分届いておらずよってうまく働いていないから、対象物はぼやけて見えているはずだ。そこで素早い改善が必要と判断できる。

頭の位置がブレなければピントがずれず認知対象物へのピント調整のタイムラグがなくなり迅速かつ正確な認知が可能となる。

自分をコントロールするのは難しいですが、ミラーリングなどの技術より面白いと思いますよ!

 

ではではバイビー

5W1Hについての考察

5W1H、これはエモーションを殺して事実を伝える、端的にいうとつまらないコミュニケーションメソッドであることを前提として意識されると良いと思います。

5W1Hとは

When、Where、Who、 What、 How、  Why   から成り立つ。
いつ、 どこで、誰が、 何を、どうする、それは何故?

日本語は主語がなくても会話が通用する故に、西欧的・米国的ビジネス文書の書き方やビジネス会話だと、その曖昧さを消し意図を明確にすることが求めてくるのが

当座ビジネスの現状ですね。

➡︎当座のsolutionとしての5W1Hを一応知っておくべき。

 

⑴(前提)agendaを先に述べる

つまり、よくいう結論・要件を先に言え、というものです。

 

 

 

「X商標の国際登録日についてご相談よろしいでしょうか(agenda)。

先ほど(when)〜〜先生から(who)X商標の国際登録日が○月○日に遅れるとのお電話(what)がありました。」

(how,whyが入っていないのであくまで「agendaを先に述べる」に含まれる)

 

上記例文だと、受け手は、まずコミュニケーションの対象物を知らされるので、対象物を認知し、そのための解像度を高めるためのピント調整の時間が得られます。

 

これにより、ボケているからピントを合わせることに終始する=話を「聴き取る」ではなく、レンズの解像度をあげていく=話の内容の具体化が可能となるんですね。

 



⑵文の書き方における5W1Hの順番


英語のように、配置で決まる言語でない日本語で、英語の5W1Hを使うのだから順番もとても重要となります。

 

通常は、いつ(when)、どこで(where)」から始めて「誰が(who)」に繋げる形

5W1H:有名な例文として以下のものがあります。

・昔(when)、ある所に(where)、御爺さんと御婆さん(who)が居ました(what).
其々(who)仕事に行き(what)、桃を拾い(what)2人には(who)子供がいなかったので(why)、子供(who)を愛情込めて(how)育てた(what)。

例文のように一文に5W1Hが入っていればどんなに短くても文章は一応成立すると見なされます。ただ昔話はビジネスではなくエンターテイメント(感情を動かすもの)っぽいので、あまり例文としてはよくないです。

 

この文みて、僕は山とかの自然を想起しちゃいましたから笑。事実伝達へのフォーカス度は下がりますね。・・・・・僕だけでしょうか、いやそんなことない(反語

 

以下はつまらないでしょうが、例文としては良いと思います。
5W1Hを使った書き方:

・私(who)は、今日15時に(when)、大阪科学技術センターで(when)大阪労務法規会のセミナーがあるため(why)、本社から現地まで(where)徒歩(how)で行きます(what)。

例文で示すとおり5W1Hを使用する際は文章を長くしないのはマストです。
内容いかんに関わらず長文は、読み手、聞き手のストレスを与えますから。

※ポイントは、ストレスを感じるのは今のビジネスイシューは基本他人事(興味ないこと)を扱っているからです。課題へのピントを合わせる気がないのでボヤけてる、っていう比喩が正しいのでしょうか。

組織の上層部の考えなんて知らんってことで動いていることですね。だから当事者感(自分ごととして考える)があれば長文でも苦にはならないと思いますよ。限度はありますが。はい、自省します。

短文はストレス軽減により集中力を持続させる効果があります(ピントの話と一緒ですね)。

このメソッドは実は僕はあまり興味そそられるものではないです。このメソッドを使えば伝わると感じている方が多いと思うのです。偏重とまでいえると思います。

 

しかし、これを問題にしているブログの記事自体が結構わかりづらいと思ったので(自分は甘やかす)。

 

理由が冗長かつ曖昧なのに・・・・・「これが仕事のできる人のマストスキル」みたいな。

 

自分の信条として批判はしないのですが(もちろん賛成・反対のポジションはとります)、少し偏重の流れを感じたので記事にさせて頂きました。

 

ではでは、バイビー

 

 

計算された侘び寂びと機能性の果ての侘び寂び

私は幼少期から(これが異常かどうかは知らないですが)歩いているときは抽象的命題の言語化を静か〜に考えています。

ほぼ無意識に。

 

社会通念上常識とされていること、意味がわかりにくいがよく目にする言葉、などが対象です。

 

それで、よく車に轢かれそうになる・・・・・

でも頭からは、3歩歩けば車のことは消えている・・・

鳥だったんだ私は!

 

この前、近くの接骨院にいく10分でずっと解らなかった「侘び寂び」についてなんとなく分かってテンションはかなり上がりましたね。

 以下、駄文

誰か知らない人が作ってくれたポーチは30年は経っている、傷つけながらもよく修理されて丈夫。かつ中身も透けるから何が入っているか、ワーキングメモリーの容量が少なく物忘れが激しい私にとっては使い勝手が大変いい。

 

かつ、これが傷つきながらもその機能性が現代のものと同等以上であることに、美しさを感じる。そして、そばに置きたいと思う。

これが機能性の果ての侘び寂びだ。

 

 

このポーチはそれが侘び寂びと芸術的に評価されるために計算され作られたものではない。ただ機能性を意識して作られた。

 

わび茶を完成させた千利休の侘び寂びは計算されたものだ。

質素なものを重視し、自分で利休道具として楽茶碗や万代屋釜を創作し、装飾も簡素。

茶会に臨む際には、「一期一会」の精神をもつことを要請される。

狭い茶室に不自然に入り、茶を飲む前は茶碗を何回も回す。

そして初めて茶を味わう。

彼はおもてなしの場として茶会を「デザイン」し、それを「マーケット」で「ブレイク」させた、「茶道」として。

 

神社もそれに近い。有難い本堂には中々近づけず、色々と複雑な道を辿り、作法に従い、創作物への理解を求められ、初めて本堂に入れる。

侘び寂びではないかもしれないが、その感動は計算されている。ふと感じるものではない。

 

私は計算された侘び寂びを否定したいわけではないし、機能性の果ての侘び寂びのみが侘び寂びというつもりもない。

 

ただ、ふと、ぼーっとして、侘び寂びが感じれるのは、後者であろうか、では侘び寂びが日常にあるということを前提とすれば、前者はどう感じればいいのか。

 

と思いながら、首の骨をボキボキしてもらいましたとさ。

personalized diversityのコミュニティ「理念」

健常者より優れた器官・認知を持ち得る「テック・デザイン・プロダクト」
を開発する視点が障がい者の「当事者感」にある。

健常者も高い利便性・意匠性によりそれを自身に取り入れるようになると、

両者は馴染んでいく。


倫理論ではなく、経済的合理性に基づくなアプローチによって、

 

現状の「全体のパラメータ総合値を無視し1つ2つのパラメーターの振れ幅だけをみて障がい者と健常者とを分ける」 フレームワークの消失を目指す。