肉親との相性ー物理的距離
今日は肉親との相性と物理的距離の関係性について取り扱って行きたいと思います。
1肉親との相性
母親(父親)と子供の相性
(子供が経済的に自活できない年齢を主に想定しています)
この2者が「気が合う」なんてことは妄想です。
血こそ繋がっていますが、違うDNAと認知特性と、何より積み重ねてきた人生が異なる以上、肉親であっても「別個体」です。
そして「別個体」同士が気が合うかどうか色々な要素に左右されます。
それを
「家族だから」
「分かり合えるはず・べき」というメディア及び識者のよく分からない言説により作出された
「世間のアタリマエ」を意識して関係を構築すると
歪な、ストレスフルな関係が作出されます。
気の合わない人と長時間、物理的に一緒の空間にいることは「メチャクチャに辛い」
(実際ぼくと母親は思考性向が真逆なので「衝突」するタイムリミットが存在します。)
これが家族が家族を殺す という凄惨な事態の一因になっているとも考えています。
人々の多様性と個人最適解については前の記事でお話ししましたが、家族においても同様なのです。
家族は当然に多様です。最適解も異なります。
互いにコントロールすることなど土台無理かつ不適当なのです。
2 育児サービスの多様性と最適解
親子関係に多様性がある、ということは「育児」のやり方にもそれぞれの「最適解」があるということです
知り合いの方で子供とは「週末2回会う」「それ以外は祖父母に世話して頂いている」と仰られながらも悩まれていた母御さんがおられましたが、ぼくは「親子の関係性を客観的に分析して、社会の一般性にただ従うのではなく、自分で考えて最適解を実践していらっしゃる」と感心しました。
明らかに「世間のアタリマエ」に思考停止で従うより、良いです。
なぜなら「ストレスフル」な母親の提供する育児サービスは「良質性」が担保されているはずがありませんから。
例えばあなたが店員でストレスを感じている状態で客に「良質」なサービスを提供できるでしょうか?
あなたは「ストレスを抱えた店員」のサービスを受けたいでしょうか?
ストレスは必ず所作に出ます。相手にも伝播するのです。
育児においてストレスフルな育児サービスは子供と親を潰します。
3 物理的に距離をとるー「実際の存在」と「存在感」
人間の世界観は「視覚」と「聴覚」「触覚」等の感覚器から入力される情報統合により生成されます。
つまり、人間は
他者を「実際に存在」しているかというより「存在感」で認知している
といえるでしょう。
感覚器で存在の「感覚」を認知しているのです。
とすれば、物理的に距離を取ってしまえば、気の合わない人の「存在感」は薄れていきます。
距離を取ってしまえばその人の情報が新しく入力されることはないからです。
ぼくは「ばあちゃん」が施設にいる時、存在感が薄れるのを感じます。
はっきり言ってしまえば
「彼女の生死」についての関心が薄れていきます。生きているのか死んでいるのか分からない状態です(もちろん生きていることは知識として知っていますが、感じないということです)。
他方で、ばあちゃんを家でちらほら見かけると「大丈夫かいな」と「所作から健康状態まで気にする」というところまで彼女の「存在感」が強くなります。視覚と聴覚での入力が行われるからです。
人生が主観である以上、人の存在も、自分にとっては「主観的」なものに過ぎないのです。神の目を持たない人間にとっては。
4育児の距離感
3は長くなりましたが、かなり重要な内容なので、後からでも良いので読んで頂きたいですが、とにかく気の合わない肉親とは
物理的に最適な距離をとる
※感覚器は拡張するので同居していては部屋を通して存在感を感じてしまいでは効果は薄いです。別の場所にいることが重要です
ことが有効です。
ちなみにぼくは母親を愛していますし、母親も愛してくれていますが
「気が合わない」ということは合意しています笑
ぼくは自活はしていますが、家賃等の固定費用の節約はしたい。
そこで、実家に一旦住みましたが「破壊的に」母親と気が合わないので話し合いの上
祖母が移設に入っていて、空家になっている祖母の家を管理することを条件に、そこで生活しています。
めっちゃ快適!!
これが感想です!
この記事が参考になれば!