引きずってでも連れて行く義務教育は存在しないー憲法26条の現代的解釈
第26条
1項 すこべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
それは後で述べます。
フィジカルしかない、経験を積み重ねようーメンタルとフィジカル
みなさん こんちわ〜〜
最近冬眠したいな、いやそもそも人間は恒温動物とはいえ冬眠とまではいかなくても仕事の量は(ry
と布団で妄想してます。
んで「禅」を勉強していて 思ったのですが
心(メンタル)ってなくね、ってか体(フィジカル)しかなくね
っといきなり思ったのです。
よく「環境によって意思は規定される」
と聞きます
(例えば、常に飢えている環境にいる人が山に登るときに見る紅葉は食用か否かで見るが、食に満たされた人は綺麗と思う)
で、考えてみたら「心」なんてないんじゃないか と思うのです
実は冷えているが湯気が出ているヤカンを渡されたら熱いと「思って」体は思いっきり手を離すのは 実際に熱いと感じているからではない。
経験則から手を離す。
そして、経験則とはまさに経験(反応)の連続によって形成される
(湯気が出ているヤカンが熱いことをなんども経験している)
であるから人間の経験(フィジカル)によって「熱い」というメンタルが形成されていく。
つまり、メンタルはフィジカルによって規定される。
言い換えればフィジカルしかなくフィジカルを守るためにメンタルという「予測性のある脳内物質」が分泌されるのではないかと。
よくメンタルクリニックとはいいますが、そこで出される薬は脳という物質から分泌される、これまた物質的なものをコントロールするためのものですね。
もちろん、心の持ちようによって 元気になる 明るくなる というのは自分も何度も経験しています。
しかし、その実は
フィジカルを守るための脳内物質の分泌(メンタル)により
健康に良い(つまり健康に良い)事象を反復して経験していく回数が増えた結果として、健康=フィジカルがよくなるのではないかと
これは語り出したらヤバス
とにかく、心を整える というより体を整える(野菜をとる、喋る、背筋をよくする、筋肉を鍛える、呼吸を整える)方が楽です。目に見えますしね。
自戒をを込めて、フィジカルのために 経験を積み重ねて行きまっしょい!
発達障害の消失
発達障害は消失します。
厳密にいえば、「障害」の定義ができなくなります。
このグラフの意味づけが何を救うのか
上記のグラフに人を当てはめるようなこともなくなります
ではなぜ消失するのか?
大きくは2つの要素が関係します。
①雑なラベリング
②人間生体学の進化
1 「発達障害」という雑なラベル貼りがもたらすモノ
現代では「発達障害」の認知はめちゃくちゃに上がっておりクリニックに行く人が増える一方、
その基準が曖昧なため発達障害は簡単に診断されてしまいます。
社会的認知が上昇すれば「グレー当事者」も足を運びやすくなります。
そのグレー当事者が参加して「自分もそうかも」と思う可能性は非常に高い。
なぜなら、そもそも足を運ぶような方は何らかの「解」を求めているからです。
その思いから「解」を求めて診断を受ければ
診断基準の緩和に基づく「雑なラベリング」が行われ 当事者が増えます
「雑なラベルリング」
しかしこれこそが、発達障害を無くす原動力となります。
そもそも「障害」は社会的マジョリティが社会的マイノリティに対して定義するものです。
多数者が「障害者」の立場に立つことは決してありません。
多数者が自らを肯定的に定義するための一番楽な手法は少数者に対してマイナスの定義をすることだからです。
この文脈からすれば「雑なラベリングによる発達障害者の増加」は、実は発達障害を無くす方向に向かいます。
障害定義要件であるマイノリティ性が崩れるからです
テクノロジーによって人の解像度が高まっています。この人はどんな特徴があるのか、テクノロジーによるデーターストックも全世界的に進んでいます。
このようなテクノロジーによる人間の生体に関する解像度の高まりがもたらすのは、爆発的な「一次的発達障害者の増加」です
つまり、自分の特徴がテクノロジーによって数字化されたりすることによって、「発達障害の特徴」 に当てはまる人が可視的になります(一次的発達障害診断)。そして容易に発達障害のラベルが貼られます。
マジョリティの地位を脅かされた一次的発達障害者である人たちが自分の尊厳を守るには、こう思うしかないのです。
「これは俺の特徴であって、障害なんてもんじゃない。診断自体が間違っている。」
価値の転換が生じるのです。
3 発達障害が消失する流れ
以上の推論を踏まえれば、発達障害が無くなる流れは以下のようになります。
①現在の発達ムーブメントと人間生体学の進歩によって「雑なラベリング」が横行
② 人口母数に対する割合が変化
③マイノリティと言えなくなる数になる
④「あれ、おれたちはなんで発達障害じゃないといえる?」
「障害」の再定義 が始まる
⑤「普通」が定義できない以上、発達「障害」も定義できない
⬇
結局は、多様性がテクノロジーによって可視化される未来の社会の中では、発達障害は「特性」として個人最適の問題として捉えられるようになるのです。
葉の色が「おかしく」見えるのは フィルターの問題
どっちがおかしいかな。
もちろん未来のことは誰にもわかりません。
だからこそ、未来のことを言葉にする価値がある
発達障害の消失 終わり
笑顔の練習の作法
ぼくは良く「笑顔が素敵」といわれます(自賛)
・・・笑わないと「怒っている」ように見えるそうです(笑)
じゃあ殆どの時間どう思われてんねん・・・
ん、何のの話かって?
この前英語学習の記事について書きましたが、少し付け加えたいことがあったので書かせてください。
めちゃ短い記事ですが笑
笑顔で喋るのが難しいというのは普通の「コミュニケーション」の場でもよく聞かれます。
ぼくもそう思います。
だって、笑顔の「練習」していないのに綺麗な笑顔を「実際」の場面作るのは、練習サボって入賞するみたいなものです。
本質的に練習しなければ何も上手くはなりません。
特に現代のストレス・ロジック優位社会ではただでさえ笑顔を忘れがちです。
だから、「笑顔の練習」をしましょう
ググれば箸を噛んで口角あげてウンヌンカンヌンいっておりますが
あれは「実際に喋っていない」ので効果が薄いと感じます。
あと面倒臭い笑 割り箸とか用意すんの〜
あれはずっとティーバッティングしてるみたいなもんです。
生きたボールを打つ練習をしなければ意味はありません。
ではどうするか。
zoom(スカイプみたいなもの)で、自分の顔を動画で自撮りしながら、笑顔で英語を喋りましょう
名付けて「Smile Move ENG]
そうSME!!
他人が見ている映像を自分も見なければ意味がありません。
しかもこれなら英会話の練習となります(特にプレゼン風がオススメですよ〜)
ぼくも英会話の前だったり、大切な人と会う前だったり、初対面の場では
必ずSMEをします。
皆さんの豊かな人生に役立てば幸いです。
肉親との相性ー物理的距離
今日は肉親との相性と物理的距離の関係性について取り扱って行きたいと思います。
1肉親との相性
母親(父親)と子供の相性
(子供が経済的に自活できない年齢を主に想定しています)
この2者が「気が合う」なんてことは妄想です。
血こそ繋がっていますが、違うDNAと認知特性と、何より積み重ねてきた人生が異なる以上、肉親であっても「別個体」です。
そして「別個体」同士が気が合うかどうか色々な要素に左右されます。
それを
「家族だから」
「分かり合えるはず・べき」というメディア及び識者のよく分からない言説により作出された
「世間のアタリマエ」を意識して関係を構築すると
歪な、ストレスフルな関係が作出されます。
気の合わない人と長時間、物理的に一緒の空間にいることは「メチャクチャに辛い」
(実際ぼくと母親は思考性向が真逆なので「衝突」するタイムリミットが存在します。)
これが家族が家族を殺す という凄惨な事態の一因になっているとも考えています。
人々の多様性と個人最適解については前の記事でお話ししましたが、家族においても同様なのです。
家族は当然に多様です。最適解も異なります。
互いにコントロールすることなど土台無理かつ不適当なのです。
2 育児サービスの多様性と最適解
親子関係に多様性がある、ということは「育児」のやり方にもそれぞれの「最適解」があるということです
知り合いの方で子供とは「週末2回会う」「それ以外は祖父母に世話して頂いている」と仰られながらも悩まれていた母御さんがおられましたが、ぼくは「親子の関係性を客観的に分析して、社会の一般性にただ従うのではなく、自分で考えて最適解を実践していらっしゃる」と感心しました。
明らかに「世間のアタリマエ」に思考停止で従うより、良いです。
なぜなら「ストレスフル」な母親の提供する育児サービスは「良質性」が担保されているはずがありませんから。
例えばあなたが店員でストレスを感じている状態で客に「良質」なサービスを提供できるでしょうか?
あなたは「ストレスを抱えた店員」のサービスを受けたいでしょうか?
ストレスは必ず所作に出ます。相手にも伝播するのです。
育児においてストレスフルな育児サービスは子供と親を潰します。
3 物理的に距離をとるー「実際の存在」と「存在感」
人間の世界観は「視覚」と「聴覚」「触覚」等の感覚器から入力される情報統合により生成されます。
つまり、人間は
他者を「実際に存在」しているかというより「存在感」で認知している
といえるでしょう。
感覚器で存在の「感覚」を認知しているのです。
とすれば、物理的に距離を取ってしまえば、気の合わない人の「存在感」は薄れていきます。
距離を取ってしまえばその人の情報が新しく入力されることはないからです。
ぼくは「ばあちゃん」が施設にいる時、存在感が薄れるのを感じます。
はっきり言ってしまえば
「彼女の生死」についての関心が薄れていきます。生きているのか死んでいるのか分からない状態です(もちろん生きていることは知識として知っていますが、感じないということです)。
他方で、ばあちゃんを家でちらほら見かけると「大丈夫かいな」と「所作から健康状態まで気にする」というところまで彼女の「存在感」が強くなります。視覚と聴覚での入力が行われるからです。
人生が主観である以上、人の存在も、自分にとっては「主観的」なものに過ぎないのです。神の目を持たない人間にとっては。
4育児の距離感
3は長くなりましたが、かなり重要な内容なので、後からでも良いので読んで頂きたいですが、とにかく気の合わない肉親とは
物理的に最適な距離をとる
※感覚器は拡張するので同居していては部屋を通して存在感を感じてしまいでは効果は薄いです。別の場所にいることが重要です
ことが有効です。
ちなみにぼくは母親を愛していますし、母親も愛してくれていますが
「気が合わない」ということは合意しています笑
ぼくは自活はしていますが、家賃等の固定費用の節約はしたい。
そこで、実家に一旦住みましたが「破壊的に」母親と気が合わないので話し合いの上
祖母が移設に入っていて、空家になっている祖母の家を管理することを条件に、そこで生活しています。
めっちゃ快適!!
これが感想です!
この記事が参考になれば!
英会話とは「先ずを持って 会話 である」
英語〜難しい〜〜
教育のこと調べていたらこんな声がチラホラ。
確かに英語難しい
と思うでしょう! 僕も最近まで思ってましたが、
いきなりタガが外れて、ペラペラとまでは行きませんが、
オンライン英会話では大体初対面の講師とfree conversation で友達になって楽しく会話できています。
その理由は主に2つ。
①「TOEIC」の点数を気にしなくなったこと(というか結果見るの忘れている)
②「英会話」ではなく、「会話」を楽しむ
この2点です。
①TOEICの点数
これは「TOEIC英語」が「固すぎる英語」と気づいて会話で使いにくいと気づいたからです。
あと、リスニングであんな早く喋るネイティブがいるとすれば「こちらを日本人」と気遣っていない コミュニケーションに問題のある人です笑
ぼくたち日本人が外国人と日本語で喋るときにまくし立てるように喋るでしょうか?
しないでしょう。
必ずスピードを緩めます。「相手に意図を伝えるために」
実際の会話でも早く喋る人とでは会話スピードは早まりますが、ゆっくりのレスポンスで喋る人とでは会話スピードは落ちます。
TOEIC英語は「表現が固く」かつ「こちらを日本人と意識しない」英語です。
そんな英語に付き合う必要は有りません。
②英会話は会話
英語で会話していてもそれは「コミュニケーション」としての会話です。
相手への思いやりがないと「コミュニケーション」は取れません。
①でも話しましたが、もしこっちが英語をゆっくり喋っているのに相手がまくし立てるように英語を喋ることなんてあり得ません。
ちなみにぼくは英語で喋る方が、拙くても、好きですし、友達も出来やすいと感じています。フランクな言葉がフランクな性格にしてくれるみたいですね〜。
英会話のコツは、
「オンライン会話」で講師と「教材を使わず」に
「カルチャー」を話題の中心に据えて
「テンション高く笑顔でかつ謙虚に」接して
「友達」になることです。
特に、笑顔と謙虚さを意識しての仲良くなりたいな〜 という感じで挑むことが一番大事ですかね。
講師の方も悪い気はしませんし、大体初対面で仲良くなれます。
カルチャー話は勉強になりますし、気が合えばすぐ仲良しになれます。
仲が悪い人の言葉をしっかり聞き取ろうとしますか?
しないですよね。
でも仲がいい人の言葉ならモゴモゴしていてもなんとかサポートして聞き取ろうとするでしょう?
それに笑顔と謙虚さが現れているならなおさらです。
以下のインプットで「ナチュラルな」英語をインプットしておくのもオススメ!
・ゲーム動画などで北米版に日英のダブル字幕が付いているものを鑑賞。webliioを別プラウザで開いておき時折調べる。
・好きな外国映画があるなら「買って」観る。好きな俳優がいるなら特にです!
大掃除から解説する!ーオルタナティブスクールの必要性 (雑巾アナロジー
大掃除 をしていて分かる多様性 と 個人最適。
そこから導かれる
オルタナティブスクールの必要性
解説していきます。
1 木目
うちはフローリングなんですが、そのフローリングのパネルは木材で各々に異なる木目をしています。
ぼくは雑巾派(んなものはない)なんですが、拭き拭きしていると各々のパネルは木目がウネウネしていたり円を描いていたりします。
それを雑巾でストレートに拭こうとすると何か引っ掛かりを覚える。
んでちょっと考えると、そもそもぼくは
「雑巾を真っ直ぐにして拭く」ことが目的じゃなくて
「フローリングのパネルの汚れを落とす」ことを目的にしているんです。
そうすると、雑巾の掛け方は、綺麗にする対象物の木目に沿って「最適」な方法で行うことになると思うのです。
必然的に雑巾の掛け方は「均一的」ではなくなります。
ぐにゃぐにゃしたり、円を描いたり。
でも「多様」な木目がある以上、それが「最適」です。
最適な雑巾掛け方法を、パネル毎に考えながら行う、というのは、
パネルの立場に立つということです。彼らのニーズを掴むということ。
そうすると、「適当に拭いて終わり」なんて思考は芽生えず、対象物への解像度が高まり、集中して雑巾掛けを行います。拭き残しも減っていくのを感じます。
つまり、雑巾掛けが「対象物を綺麗にする」ということを目的とする以上、その方法は対象物の「多様」性に依存して「最適解」をだすので、
「これが正しい方法」という均一的な方法は存在し得ません。
「端っこから雑巾掛ける」みたいな思考停止の方法は「対象物」を無視した自分本位の掃除です。
2 ビジネスの木目
この雑巾掛けアナロジーはビジネスでも同じく当てはまります。。
弁護士ならクライアントの主張から導かれる法的主張の構成が他事例と一緒であっても、財務、被害者感情、身体拘束時間の希望などによって対応を変えることが
「クライアントの幸せ」 に適います。
3 教育の木目
雑巾アナロジー は教育にはより強く当てはまります。
生徒は
同じ歳=同種類のフローリングという均一性 は持ちますが、木目はそれぞれにおいて異なる 多様性
を必ず持ちます。
そうだとすればどう磨けば輝くのかという 最適解 は個人で異なります。
ここで 義務教育 のスコア教育は瓦解します。
均一的なスコア付けは個人最適と逆行しているからです。
そこで
個人最適解を追求するオルタナティヴスクールの登場の必要性が導かれます。
もちろん義務教育がしてくれればいいのですが、文部省官僚は「木目」を直にみる機会が少ないので関心は薄いでしょう。