笑顔の練習の作法
ぼくは良く「笑顔が素敵」といわれます(自賛)
・・・笑わないと「怒っている」ように見えるそうです(笑)
じゃあ殆どの時間どう思われてんねん・・・
ん、何のの話かって?
この前英語学習の記事について書きましたが、少し付け加えたいことがあったので書かせてください。
めちゃ短い記事ですが笑
笑顔で喋るのが難しいというのは普通の「コミュニケーション」の場でもよく聞かれます。
ぼくもそう思います。
だって、笑顔の「練習」していないのに綺麗な笑顔を「実際」の場面作るのは、練習サボって入賞するみたいなものです。
本質的に練習しなければ何も上手くはなりません。
特に現代のストレス・ロジック優位社会ではただでさえ笑顔を忘れがちです。
だから、「笑顔の練習」をしましょう
ググれば箸を噛んで口角あげてウンヌンカンヌンいっておりますが
あれは「実際に喋っていない」ので効果が薄いと感じます。
あと面倒臭い笑 割り箸とか用意すんの〜
あれはずっとティーバッティングしてるみたいなもんです。
生きたボールを打つ練習をしなければ意味はありません。
ではどうするか。
zoom(スカイプみたいなもの)で、自分の顔を動画で自撮りしながら、笑顔で英語を喋りましょう
名付けて「Smile Move ENG]
そうSME!!
他人が見ている映像を自分も見なければ意味がありません。
しかもこれなら英会話の練習となります(特にプレゼン風がオススメですよ〜)
ぼくも英会話の前だったり、大切な人と会う前だったり、初対面の場では
必ずSMEをします。
皆さんの豊かな人生に役立てば幸いです。
肉親との相性ー物理的距離
今日は肉親との相性と物理的距離の関係性について取り扱って行きたいと思います。
1肉親との相性
母親(父親)と子供の相性
(子供が経済的に自活できない年齢を主に想定しています)
この2者が「気が合う」なんてことは妄想です。
血こそ繋がっていますが、違うDNAと認知特性と、何より積み重ねてきた人生が異なる以上、肉親であっても「別個体」です。
そして「別個体」同士が気が合うかどうか色々な要素に左右されます。
それを
「家族だから」
「分かり合えるはず・べき」というメディア及び識者のよく分からない言説により作出された
「世間のアタリマエ」を意識して関係を構築すると
歪な、ストレスフルな関係が作出されます。
気の合わない人と長時間、物理的に一緒の空間にいることは「メチャクチャに辛い」
(実際ぼくと母親は思考性向が真逆なので「衝突」するタイムリミットが存在します。)
これが家族が家族を殺す という凄惨な事態の一因になっているとも考えています。
人々の多様性と個人最適解については前の記事でお話ししましたが、家族においても同様なのです。
家族は当然に多様です。最適解も異なります。
互いにコントロールすることなど土台無理かつ不適当なのです。
2 育児サービスの多様性と最適解
親子関係に多様性がある、ということは「育児」のやり方にもそれぞれの「最適解」があるということです
知り合いの方で子供とは「週末2回会う」「それ以外は祖父母に世話して頂いている」と仰られながらも悩まれていた母御さんがおられましたが、ぼくは「親子の関係性を客観的に分析して、社会の一般性にただ従うのではなく、自分で考えて最適解を実践していらっしゃる」と感心しました。
明らかに「世間のアタリマエ」に思考停止で従うより、良いです。
なぜなら「ストレスフル」な母親の提供する育児サービスは「良質性」が担保されているはずがありませんから。
例えばあなたが店員でストレスを感じている状態で客に「良質」なサービスを提供できるでしょうか?
あなたは「ストレスを抱えた店員」のサービスを受けたいでしょうか?
ストレスは必ず所作に出ます。相手にも伝播するのです。
育児においてストレスフルな育児サービスは子供と親を潰します。
3 物理的に距離をとるー「実際の存在」と「存在感」
人間の世界観は「視覚」と「聴覚」「触覚」等の感覚器から入力される情報統合により生成されます。
つまり、人間は
他者を「実際に存在」しているかというより「存在感」で認知している
といえるでしょう。
感覚器で存在の「感覚」を認知しているのです。
とすれば、物理的に距離を取ってしまえば、気の合わない人の「存在感」は薄れていきます。
距離を取ってしまえばその人の情報が新しく入力されることはないからです。
ぼくは「ばあちゃん」が施設にいる時、存在感が薄れるのを感じます。
はっきり言ってしまえば
「彼女の生死」についての関心が薄れていきます。生きているのか死んでいるのか分からない状態です(もちろん生きていることは知識として知っていますが、感じないということです)。
他方で、ばあちゃんを家でちらほら見かけると「大丈夫かいな」と「所作から健康状態まで気にする」というところまで彼女の「存在感」が強くなります。視覚と聴覚での入力が行われるからです。
人生が主観である以上、人の存在も、自分にとっては「主観的」なものに過ぎないのです。神の目を持たない人間にとっては。
4育児の距離感
3は長くなりましたが、かなり重要な内容なので、後からでも良いので読んで頂きたいですが、とにかく気の合わない肉親とは
物理的に最適な距離をとる
※感覚器は拡張するので同居していては部屋を通して存在感を感じてしまいでは効果は薄いです。別の場所にいることが重要です
ことが有効です。
ちなみにぼくは母親を愛していますし、母親も愛してくれていますが
「気が合わない」ということは合意しています笑
ぼくは自活はしていますが、家賃等の固定費用の節約はしたい。
そこで、実家に一旦住みましたが「破壊的に」母親と気が合わないので話し合いの上
祖母が移設に入っていて、空家になっている祖母の家を管理することを条件に、そこで生活しています。
めっちゃ快適!!
これが感想です!
この記事が参考になれば!
英会話とは「先ずを持って 会話 である」
英語〜難しい〜〜
教育のこと調べていたらこんな声がチラホラ。
確かに英語難しい
と思うでしょう! 僕も最近まで思ってましたが、
いきなりタガが外れて、ペラペラとまでは行きませんが、
オンライン英会話では大体初対面の講師とfree conversation で友達になって楽しく会話できています。
その理由は主に2つ。
①「TOEIC」の点数を気にしなくなったこと(というか結果見るの忘れている)
②「英会話」ではなく、「会話」を楽しむ
この2点です。
①TOEICの点数
これは「TOEIC英語」が「固すぎる英語」と気づいて会話で使いにくいと気づいたからです。
あと、リスニングであんな早く喋るネイティブがいるとすれば「こちらを日本人」と気遣っていない コミュニケーションに問題のある人です笑
ぼくたち日本人が外国人と日本語で喋るときにまくし立てるように喋るでしょうか?
しないでしょう。
必ずスピードを緩めます。「相手に意図を伝えるために」
実際の会話でも早く喋る人とでは会話スピードは早まりますが、ゆっくりのレスポンスで喋る人とでは会話スピードは落ちます。
TOEIC英語は「表現が固く」かつ「こちらを日本人と意識しない」英語です。
そんな英語に付き合う必要は有りません。
②英会話は会話
英語で会話していてもそれは「コミュニケーション」としての会話です。
相手への思いやりがないと「コミュニケーション」は取れません。
①でも話しましたが、もしこっちが英語をゆっくり喋っているのに相手がまくし立てるように英語を喋ることなんてあり得ません。
ちなみにぼくは英語で喋る方が、拙くても、好きですし、友達も出来やすいと感じています。フランクな言葉がフランクな性格にしてくれるみたいですね〜。
英会話のコツは、
「オンライン会話」で講師と「教材を使わず」に
「カルチャー」を話題の中心に据えて
「テンション高く笑顔でかつ謙虚に」接して
「友達」になることです。
特に、笑顔と謙虚さを意識しての仲良くなりたいな〜 という感じで挑むことが一番大事ですかね。
講師の方も悪い気はしませんし、大体初対面で仲良くなれます。
カルチャー話は勉強になりますし、気が合えばすぐ仲良しになれます。
仲が悪い人の言葉をしっかり聞き取ろうとしますか?
しないですよね。
でも仲がいい人の言葉ならモゴモゴしていてもなんとかサポートして聞き取ろうとするでしょう?
それに笑顔と謙虚さが現れているならなおさらです。
以下のインプットで「ナチュラルな」英語をインプットしておくのもオススメ!
・ゲーム動画などで北米版に日英のダブル字幕が付いているものを鑑賞。webliioを別プラウザで開いておき時折調べる。
・好きな外国映画があるなら「買って」観る。好きな俳優がいるなら特にです!
大掃除から解説する!ーオルタナティブスクールの必要性 (雑巾アナロジー
大掃除 をしていて分かる多様性 と 個人最適。
そこから導かれる
オルタナティブスクールの必要性
解説していきます。
1 木目
うちはフローリングなんですが、そのフローリングのパネルは木材で各々に異なる木目をしています。
ぼくは雑巾派(んなものはない)なんですが、拭き拭きしていると各々のパネルは木目がウネウネしていたり円を描いていたりします。
それを雑巾でストレートに拭こうとすると何か引っ掛かりを覚える。
んでちょっと考えると、そもそもぼくは
「雑巾を真っ直ぐにして拭く」ことが目的じゃなくて
「フローリングのパネルの汚れを落とす」ことを目的にしているんです。
そうすると、雑巾の掛け方は、綺麗にする対象物の木目に沿って「最適」な方法で行うことになると思うのです。
必然的に雑巾の掛け方は「均一的」ではなくなります。
ぐにゃぐにゃしたり、円を描いたり。
でも「多様」な木目がある以上、それが「最適」です。
最適な雑巾掛け方法を、パネル毎に考えながら行う、というのは、
パネルの立場に立つということです。彼らのニーズを掴むということ。
そうすると、「適当に拭いて終わり」なんて思考は芽生えず、対象物への解像度が高まり、集中して雑巾掛けを行います。拭き残しも減っていくのを感じます。
つまり、雑巾掛けが「対象物を綺麗にする」ということを目的とする以上、その方法は対象物の「多様」性に依存して「最適解」をだすので、
「これが正しい方法」という均一的な方法は存在し得ません。
「端っこから雑巾掛ける」みたいな思考停止の方法は「対象物」を無視した自分本位の掃除です。
2 ビジネスの木目
この雑巾掛けアナロジーはビジネスでも同じく当てはまります。。
弁護士ならクライアントの主張から導かれる法的主張の構成が他事例と一緒であっても、財務、被害者感情、身体拘束時間の希望などによって対応を変えることが
「クライアントの幸せ」 に適います。
3 教育の木目
雑巾アナロジー は教育にはより強く当てはまります。
生徒は
同じ歳=同種類のフローリングという均一性 は持ちますが、木目はそれぞれにおいて異なる 多様性
を必ず持ちます。
そうだとすればどう磨けば輝くのかという 最適解 は個人で異なります。
ここで 義務教育 のスコア教育は瓦解します。
均一的なスコア付けは個人最適と逆行しているからです。
そこで
個人最適解を追求するオルタナティヴスクールの登場の必要性が導かれます。
もちろん義務教育がしてくれればいいのですが、文部省官僚は「木目」を直にみる機会が少ないので関心は薄いでしょう。
教室という「世界」からのイジメの根元
ツイッターの反応が良かったのが
ここ20年くらい、報道は自殺の問題を自殺した際の学校の対応、担任の対応にずーっとフォーカスしていますが、「なぜイジメが起こるのか」という根元をフォーカスしないとまた20年地獄が続くんですよ。
— diver (@asworknot) December 22, 2018
年齢というラベルだけで教室を構成する是非とか、学校の身体拘束の時間の長さとか あるでしょうに
やっぱりみんなそう思っとるんかな〜と感じつつ、もう少し詳しく述べたいなと思います。
学校の教室・校舎はまず物理的に狭い。
そして、そこには無作為に年代だけで抽出された生徒が押し込まれます。
彼らは年代こそ一緒ですが、もちろん発達の特性や進度は異なります。
それはそうでしょう、皆一人一人違うDNAを持っているのですから。
人一人として同じ人間はいないと言われたのは義務教育を受けていた時でした。
ただ、現代義務教育制度はそれと矛盾した行いをしています。
人一人として異なる特性を持つのに、
「お勉強」という明らかに言語優位・聴覚優位者に得意な「題目」によって、クラスでのスコア付を行なっています。
そんなスコア付など意味はありません。上で述べたように 人はの発達の特性と進度がそれぞれ異なるのですから、本質から考えればその特性と進度を見極めて最適な学問環境を整えるのが、「教育」の在り方のはずです。
しかし、スコア付によって誰が誰より優位であるか劣位であるかということが「可視化」されます。
運動は別にやってもいいしやらなくてもいいのが 逃げ道 となってくれていますが
「お勉強」のスコア付による優位・劣位の可視化は避けては通れません。
ぼくは、この「お勉強スコアによる優劣の可視化」によって
比較習慣が生徒間・先生間・保護者間に生成され、
この比較習慣が子供・保護者の他者への劣等感などを意識の底に植え付けていると考えます。
比較習慣が生む弊害としては
●先生・保護者が躍起になって子供の合わないことを強制する
●それができない子供は自分の自己肯定感を下げて感情的な豊かさを失う
●また子供間での比較習慣が進むことにより、「劣位」にある者、「優位」にある者というカースト的な意識が子供間でも進む。
それは「お勉強のスコア」からさらに広がり「肉体的な優位・劣位」「コミュニケーションの優位・劣位」「ビジュアルの優位・劣位」にまで浸透していく。そして「優位」にある者がストレスを感じている場合には「劣位」にある者がそのストレスの捌け口として精神的・肉体的加害を加えられる
=イジメ・不登校が生じる
というロジックです。自分の経験からしてもこれが仮説として正しいのではと考えています。
僕は小学校の高学年時に女子の軍団からイジメを受けた経験がありますが、 その時のことを回想しても「何か他のパワーが働いていた」と思うのです。
つまり、「イジメる側も、構造的な問題でストレスを継続的に感じている」というモノです。
ストレスがない状態で特定の誰かを1日のみではなく1年半ほども傷つけてやろう、と思うこと自体あり得ないですから。
ぼくは身体的には強かったので暴力は振るわれませんでしたが、痛烈な言葉は今でも覚えています。
もし、もし、今彼女たちに会っても何もしないでしょう。
しかし、過去に遡ってその状態に再び直面するなら
ぼくは自分の尊厳を守る為にどのような反撃手段でもとるでしょう。あの時受けた侮辱をもう一度やり過ごすことなどできないです。
・・・・少し自分の体験に落ちすぎてしまいました。
とにかく、その時の担任は何もしてくれませんでした。知らんぷり。でも彼も生徒に対して凄いストレスを感じていました。聞こえるくらいの影口は叩かれるわ、実際に無視されるわで。
ぼくは小学校高学年程から、学校のクラスが正常に機能しているのを見たことがありません。
誰かが誰かに傷つけられて、それは先生も一緒で。
「世界はこんなにも広いのに」
日本だけじゃない、何十カ国も存在して、一生かけても回れない程に広いのに。
子供が認識する「世界」とはその視覚と聴覚、触覚などにより脳に入力されるとても狭い狭い「学校」の中の情報で形成されます。
そして、身体拘束の長さがその世界観の狭さに拍車をかけます。朝から夕方までその物質的に小さいプラットフォームでの生活を余儀無くされるのですから。そこが地獄でも
だから、子供にとってのイジメは「世界」によるイジメ
なのです。
小さな子供は世界から排除されたと認知せざるを得ないのです。
だって知らないんだもの、
分からないんだもの、
教えてくれないんだもの
「世界はこんなにも広い」 なんてことは。
ラフな言葉によるラベリングー発達「障害」なのか「傾向」なのかー教育の箱
https://twitter.com/mirailist/status/1078922420067590145
フォローしているみらいのリストさんのツイートをみて、改めて思ったのですが、
社会では、あまりにもラフな言葉によるラベリングが多すぎます。
(そもそも社会という言葉もラフです。また記事にします!)
「コンプライアンス」などの新しい外来語を解釈や、外国人労働者を外国人労働「力」という完全にモノ扱いする言葉などが、色々な弊害を生みます。
まずこの記事では、
発達の尖りを「障害」というのか「傾向」というのか
に焦点を当てて行きましょう。
1 2つの理由
人間はそれぞれに異なった遺伝子、認知特性、そして異なる人生経験を持っていますから、「傾向」にバラツキが出るのは当然です。
そして自分の「傾向」を知ることは良いはずです。自分の適性を押さえて最適解を出しやすくなるのですから。
したがって、自己の発達の特性に「傾向」があると知っていることは、社会におい適正に基づいて最適なことをこなすことに繋がり、
結果、社会全体の幸福値を上げられる「はず」です。
では、なぜその発達の特性の「傾向」がある人と認定されると「障害」という言葉のラベルが貼られるのでしょう?
認定者側、つまり定型者には「傾向」がないとでもお思いなのでしょうか。
おそらく、そういうことでもないでしょう。
社会(ここでは社会的マジョリティを指します)が発達の尖りを「障害」とラベリングする理由は、主に2つ
「多様性に対する管理コストの抑制」
「マニュアル人間の自己肯定」です。
2 歴史からの考察
時は遡りますが、明治からの列強に対抗するための富国強兵政策で、政府は「強力な軍隊」を編成するために、上層部の命令を「バラツキなくこなせる一律・従順なまあまあ優秀な兵隊」を養成することが急務でした。
そこから、義務教育が始まりました。
そこでは個人の特性に沿った最適解などは求められず、政府のお題目にちゃんとついてこれるかという一律性・規則性、
つまり教科書というマニュアルに書いてあることを一定のレベルで実行できる能力が求められました。
個人の特性に沿った最適解などを探すことをサポートなどする財務的余裕もなかったでしょうし、何より軍隊では「上司の命令を以下に思考停止して遂行できるか」が重要となるからです。
戦後、日本が焼け野原になった後、義務教育は軍国主義思想からは脱却しましたがマニュアル主義から抜け出せていません。
単純に、個人の特性に沿った最適解を探すことをサポートするよりもマニュアル渡してそれを実行しろ、という方が「楽」だからです。
それが現代の義務教育でありその「教育の箱」で鋳型に無理やり詰め込まれた人間は卒業後は大半はマニュアル人間と化してしまっています。
(日本は高校までの進学率も高いので高校まで準義務教育的と言っていいでしょう。これを便宜的に「教育の箱」と言っています)
そして、「教育の箱」出身者のマニュアル人間が社会のマジョリティかつ母数が多い事による優位者である以上、
彼らは多様性に基づく個人の最適解よりマニュアルに基づく実行能力を評価します。
その方が「管理する側において楽」と感じているのでしょうし、
何よりそれは「自分が歩んできた自分の道を正当化する」ことにもなるからです。
自分の正当性を確かめる1番の方法は、後続にも同じことをやらせて成功させることですから。
日本の会社がいまだにジェネラリストを養成しようとしているのもこの延長線上にあります。
しかし、現在・・・・・
マニュアルに基づく実行能力はテクノロジーによる代替可能性が一番高いものです。
コンピューターのマニュアル実行能力には人間はとても叶いません。またマニュアルが情報通信の発達によりほぼ共有知となっていることからも、優れたマニュアルにも意味はなくなってきています。
現在日本の企業が世界で苦戦しているのはこのことをよくわからないまま「とにかくマニュアル」という人間が「上層部」に多いからです。
さらに、今日では多様性に基づく個人の特性の最適解に対する管理コストは高くありません。
なぜならテクノロジーによって個人の特性の「傾向」を可視化できるからです。
また、人口減少社会においては昔より一人の人間に対しての集中することができます。
結局、「多様性に対する管理コストの抑制」というのは現在においては当てはまりませんし、「マニュアル人間の自己肯定」というのもただの価値観の押し付けです。
時代性においても、多様性に基づく個人の特性の最適解は好ましいことなのです。
3 結論
以上から、やはり発達「障害」という言葉には
疑問符 なのです。
何に「障」るのか、何が「害」なのか。
「傾向」と「障害」の分水嶺はどこか
ここら辺を明確にしないまま、ネガティヴな言葉でラベリングすることは、大きな問題だと考えています。
・・・・早く京田辺シュタイナーの記事書かねば!! さらばです!!
第1の教育者ー母親?地域コミュニテイ?
子供にとっての第1の教育者は「母親」です(祖父母や父親の場合もありますが、母数が少ないので母親に統一します)
そして、学校よりも母親からの教育の方が、幼年期においては大事です。
個対個のレベルでの関与時間がべらぼうに長いからです。
(学校は集団的な関与かつ時間も幼年期においてはそれほど長くないので影響力が比較的に小さいです)
子供が母親のご機嫌を伺うようでは終わりです。自発性が死にます。
母親が子供の関心や集中を観察し、それに合った環境を与えてやることが大事です。
というのはお題目としては重要でかつ必要だとは思いますが、発達特性の尖った子供さんを持った母親さんで育児を助けてくれる人がいない方は
そんなことを意識する力さえ残っていないように見受けられます。
その疲弊は、言葉の端々から感じてとります。
育児は母親だけに託すのはそもそも歴史的に過大な負担であり不可能です。
昔の長屋のような地域コミュニティを持ってして初めて第1の教育者たる母親の方は心を安定させながら育児ができます。
特に発達特性のある子供の場合は顕著です。
ぼくは子供と高齢者の方はコミュニケーションの相性がいいと思っていますので、そのような地域コミュニテイをオルタナティヴスクールと同時に作っていく必要性を感じています。
なんにせよ、お母さん方を地域や周りの人で支えるのが、現代育児の急務でしょう。
お母さん方は第1の教育者ではあっても、そこに教育・育児の負担を集中させてはならないのです。